映画『東京裁判』6 「釈迢空(折口信夫)と柳田國男が語る。悲壮美を愛する民族、日本人」

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折口信夫のことを調べていると、10年以上前に読んだ文章に出会いました。

ハードディスクの中に眠っていたようです。

 

折口信夫と柳田國男が、歌人岡野弘彦の前で語り合った事があります。

日本人は、死を美としすぎたのだと語る2人。

 

2人の民俗学者は後悔していたのです。

しかし、それはある意味民族のDNAなのだから、人々がその意志でなんとかしようとしても簡単には変えられるものではありません。

 

戦後、72年が過ぎた今年でも、

真夏の炎天下、熱中症寸前まで頑張る高校球児を応援している日本人。

必死に走るランナーを、その悲壮さ故に見入ってしまう日本人。

私達のDNAは、変わっていない。変える必要もない。

 

朝日新聞文化面H11.4.7より引用

『いのちの桜、死の桜』

岡野弘彦(おかのひろひこ)=歌人

 桜はふしぎな花である。伊豆の海にのぞんだ山の斜面に、大島桜や山桜が白じろと咲きはじめると、それに心が誘い出されるように、七十五年の生涯の折々の桜が、胸の中で花ひらきゆらぎはじめる。書斎から見おろす風景の中に桜が咲いている間は、私も気もそぞろになって、あれを思いこれを思いしず心ない日をすごす。生きた時代のはげしさそのままに、記憶の桜もはげしく酷い姿で、切なくよみがえりつづけるのである。

 昭和二十年四月十三日、東京の二度目の大空襲の夜、爛漫と咲きみちたまま渦巻く戦火にあおりたてられて、みずからが凄惨な炎となってほろびゆく桜を見た。二十歳の私は、大阪で編成された九十九里海岸を防備する部隊の一兵士として運ばれてきて、山の手線の巣鴨と大塚の間で軍用列車を直撃の焼夷弾で焼かれ、線路脇の溝の泥水をかぶって火の難を辛うじてのがれながら、業火に焼かれてゆく人と桜を、なすすべもなくまざまざと見つめていた。

 そして五日間。東京に残されて、戦友や軍馬や、いたる所に倒れ伏している市民の焼死体を集めて焼く作業をしたのち、本隊の宿舎になっている茨城県鉾田の中学校の校庭へ入っていった。染井吉野の花が満開で、呆然として見上げていると、身をおし包むように花が散かかり、体に泌みついた死体の脂の臭いが、むっと鼻をついてにおいたった。白日の下で裸身をさらして責められているような恐ろしさだった。

 敗戦の翌年の春、桜の咲く頃になると私はまた心がそぞろになって、大和から山城、近江を歩いた。旅に終わりの日、逢坂の関から三井寺へ向かう道の途中で、一基の碑に「ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という、平忠度(たいらのただのり)の歌の刻まれているのを見た。平家一門の都落ちと忠度の歌への執着をめぐって、さらに師の藤原俊成がこの一首を千載に入集させてやったことについては平家物語にくわしい。

 長等山の山桜の落花をあびながら、眼下に琵琶湖を見わたして忠度の歌を口ずさんでいるうちに、私の胸の奥に長い長い日本人の悲傷の思いとその文芸の伝統といったものが、息づいてよみがえってくるのを、ありありと感じることができた。

 忠度だけではない。古代の万葉集の歌人、柿本人麻呂も高市黒人も、壬申の乱によって人も都も跡かたもなく焼けほろびた近江を悼んで多くの悲歌を詠み、平家の衰亡をまだつゆ知らぬ忠度も、わが悲運を暗示するかのように近江の都の哀歌を残している。さらに、その永い思いの流れを汲んで、芭蕉は「ゆく春を近江の人と惜しみける」という句を生み、近江に住みながらその土地が負う深い痛みの伝統を感じることのない門弟の非難を、きびしく退けた。

 二十一歳の私に、日本文芸に流れる鎮魂の歌の系譜が、さほど筋だった形でわかっていたはずはない。ただ、私は幼い頃から心ひかれた詩歌はすぐに暗記してしまう癖があった。この時も忠度の歌の碑の前で、暗誦している人麻呂や黒人や芭蕉の歌句がよみがえり、口ずさんでいるうちに、そのしらべに宿る魂が私の心に行き触れて、ここ二・三年の戦争と敗戦のただ中で、多くの死者と桜にめぐりあって傷つき歪んだ私の魂を鎮めてくれたのであった。

 もう一つ、語らないではすませられない桜の記憶がある。昭和二十四年の春、折口信夫は民俗学の師の柳田国男を東京・成城の家に訪ねた。柳田は喜んで成城の町や近郊の桜を共に見て歩いたのち、自宅の書斎に帰り、沈痛な表情で折口に問いかけた。「ねえ折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るようにいさぎよく死ぬことを美しいと考え、われわれ老人もそれを若者に強いたのだった。これほど死を美しいと考える民族は日本人のほかにも居たかもしれないが、みな早く滅びてしまって、偶然、海に囲まれて外敵から守られてきた日本人だけが、残ったのではないだろうか。あなたはどう思いますか」

 折口も一言も答えないまま、沈黙の中で対座していた。そばに居る私が居たたまれぬほど、重い時間だった。いま、平和の桜の下でこの時の思い沈んだ二人のすぐれた民俗学者の心の底を考えてみることが多い。殊に、みずからや家族の命を守る責任を、他人まかせにするようなふりをする日本の歩みの軽さを考えると、桜の花の散るように死ぬのを美しいとする従来の日本人の死生観は、より軽くなったまま現在も少しも変わっていないのかもしれない。

すさまじく ひと木の桜ふぶくゆゑ 身はひえびえとなりて 立ちをり

咲き満ちて 胸せまりくる花の山。西行のごとく 我はあそばず