ゾンビが全力で追いかけてくる映画「28週後...」日本語予告編
『28日後』の続編だが、前編を観なくても十分である。
『28日後』のゾンビは覇気がない。ゾンビに覇気がないとは意味不明な表現かもしれないが,そう感じたので仕方がない。
『28週後』は緩急があり、ゾンビの勢いも良い。特に疾走する彼らに追いかけられる恐怖たるや尋常ではない。
まだゾンビ化していない主演のロバート・カーライルが草原を逃げる際に、背景になる丘の上にゾンビたちが並ぶ。そしていっせいに突っ走りながらカーライルを追うのだ。
どこかでみたことがあるシーンだと思ったら、自分のよく見る夢だった。
今はどんなスプラッター&ホラー映画を見ても平気だが、十代の頃はさっぱりだった。
映画館の予告でホラー映画を観てしまい、恐怖のあまり本編も観ずに飛び出してしまった。
いわゆる、パニック障害の症状である。
心臓が激しく鼓動し、このまま死ぬのではないのかとの恐怖が全身を覆った。
どうやって家まで帰ったかも覚えていない。
それ以来数年間は、ちょっとしたことでもパニック発作に襲われた。
映画『メトロポリス』を観ても、あのコントラスのある映像を見ただけで、心臓がバクバクした。
Metropolis (1927) Fritz Lang - Rescore by The New Pollutants
三十代の後半から、すっかり平気である。
じっくり観て「あんな皮膚の剥がれ方はおかしい。フェイクとまるわかりだ」とか「人間の首が簡単に切れすぎだ。大根じゃないんだから」とか突っ込めるようになっている。
(ちょっと不謹慎なので小声で書くと、ISの処刑映像動画を見ても「人の首って案外簡単に切れるもんだな。いやあれは普段から羊とかで切り慣れているからか」と感心してしまった。)
ホラーでも暴力的な内容だと、アドレナリンが出るのか観終わった後やたらと元気になる。
良いのか悪いのか。
閑話休題。
欧米人が何故にゾンビ化を恐れるのか。
多分、キリスト教の教義に原因があると思われる。
2001年の9.11事件の一年後の追悼式、ツインタワーの跡地で、テロで父親を失くした11歳の少女の誌の朗読があった。
Do not stand at my grave and weepである。
日本では「千の風になって」と訳された
Do not stand at my grave and weep
I am not there; I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow,
I am the sun on ripened grain,
I am the gentle autumn rain.
When you awaken in the morning's hush
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there; I did not die.
<日本語訳>
わたしのお墓に佇み泣かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは眠りません
わたしはふきわたる千の風
わたしは雪上のダイヤモンドのきらめき
わたしは豊穣の穀物にそそぐ陽光
わたしはおだやかな秋雨
あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき
わたしは翔け昇る上昇気流となって
弧を描いて飛ぶ静かな鳥たちとともにいます
わたしは夜に輝くやさしい星々
わたしのお墓に佇み嘆かないでください
わたしはそこにはいません、わたしは死ななかったのです
日本人にはすんなりと心に響く内容だが、キリスト教徒から見れば教義の否定である。
彼らの認識では、死者は墓で眠っているのが普通である。死んだという意味で眠っているのではない。ただ、眠っているのである。
最後の審判の際、イエスキリストが再臨し、(キリスト教徒で)正しい行いをし(「命の書」に元々名前のある)人が天国に、残りは地獄に行くと新約聖書にはある。真に厳しい条件なのだ。
ヨハネの黙示録に詳しく描かれている。
だからキリスト教徒なら、お墓で眠っていると判断するのが正しい。
このアメリカの詩は、叙情的な表現でキリスト教を越えた世界を表現したので話題になったのだ。
日本人なら当たり前なのだが。日本人は自然神を対象とした信仰を無意識に持っている人が大半だからだ。
欧米人がゾンビを恐れるのは、眠っていた人達が、甦って醜い人喰いの化物になることは最悪だからだろう。