『ブレードランナーの未来世紀』町山智浩著より。
はじめに、
「『素晴らしき哉、人生!』をハートウォーミングなコメディだと考えている人々は、一体何を見ているのやら」─────────デヴィッド・クローネンバーグ
とのクローネンバーグ監督の言葉が引用されている。
『素晴らしき哉、人生!』は10回以上は観たと思う。
20代の頃はクリスマスの度に観ていた。まるでアメリカ人の真似をしたかのように。
町山智浩によるとこの映画、アメリカでの1946年公開当時は、まったく客が入らず興行としては大失敗だったらしい。
しかし、何度かTVで放映される度に人気が出て、クリスマスの度にアメリカ人が家族で観るようになった。
日本でも20代の私のように単純な人が感激して毎年観るようになっている。
ストーリーはひと言で表現すると「善人が絶望の時、神さまは助けてくださる」との内容だ。
主人公のジョージは良心的な住宅ローン会社を経営している。正確には父親が経営していた。父親は映画の初期に死亡するのであまり関係ない。
本人は、海外へ出て商社マンのようなことをしたかったのだが、父親の死と弟が勝手に結婚して婿養子に入ってしまったがために後を継がざるを得なくなった。
そんなことで、結構不満はあったのだが、幼なじみで美人の嫁をもらい、子供もできて、町の貧乏人からも感謝されるようになっていたので、なんとなく俺は幸せだなと暮らしていた。
ところが、間抜けな叔父がクリスマスの夜に会社の8000ドルもの小切手を落としてしまった。それを悪役銀行家ポッターに拾われて隠されたのだ。
このままだと会社は潰れて、社長のジョージは刑務所行きとなる。
絶望して自殺を考えるジョージだが、それを天使と名乗るおっちゃんが止める。
ジョージがいなかった町がどうなっているかを体験させるのだ。
彼は半信半疑だったが、気づくと町が荒んだ、飲み屋や怪しい店だらけのけばけばしい場所になっていた。
友人だった人物には馬鹿にされ、妻には変質者と間違われて悲鳴を上げられる。
後悔した彼は、神さまに向かって自殺しようとしたことを謝罪し、元の世界に戻してくれるように祈る。
映画なので、当然戻ることが出来る。家に戻ると、家族と町の住民が彼の帰りを待っており、彼に世話になった住民達が少しずつお金を出し合って彼を救ってくれる。
確かに感動的な内容だ。しかし、これはあまりにハッピーエンド過ぎやしないか。
ここで「『素晴らしき哉、人生!』をハートウォーミングなコメディだと考えている人々は、一体何を見ているのやら」とのデヴィッド・クローネンバーグ監督の言葉が意味するものが見えてくる。
当時のアメリカでは(今でもそうだが)、天使がジョージに見せた荒んだ町が大部分だったのだ。
そう、まるで『セブン』のような。
この映画、残酷な猟奇殺人がまるで幻想的といってもいいような美しい映像で描かれる。
その中でも、モーガン・フリーマン演じる定年前の老刑事が相棒(ブラッド・ピット)の妻から相談を受けるシーンが哀しく、心に爪をたてられるように響く。
妊娠したけれど子供をこんな町で産んでいいのかと問いかけられた老刑事が、自分は昔同棲していた女性には「産むな」と言った。今でも、あの決断は正しかったと思っている。しかし、別の決断をしていたらと思わない日は1日もない。
産まないのなら、夫には言うな。産むのなら、精一杯甘やかして育ててやれ、と。
老刑事の優しさに彼女は泣くのだ。
現実は『セブン』の世界。『素晴らしき哉、人生!』こそが儚い夢なのだ。
しかし、それだからこそ、生きることに意味があることをこの2本の映画から感じ取ることが出来る、と思いたい。