文筆家の小野美由紀氏がトークイベント中「多様性」について話していると、おじさんから、
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」
と言われて、キレたそうです。
「差別とか偏見って、どうして無くならないのだろう」と小野美由紀氏は嘆いています(大人としては、ちょっと気恥ずかしい嘆きです)。
しかし、他者と差別し偏見を持つのは、人間(他の生命体も含む)の宿業である事実を受け止めなければ問題の解決にならないのです。
仮に、この発言をしたおじさんが竹野内豊や福山雅治のごときハンサムな男性であり、「ゲイがいるのはいいよ。でもね、好かれたらキモいかも」などとさらっとカッコよく言われていれば、小野氏の対応も変わったかもしれません。
それが普通です。
女性の中に、醜男と美男子を差別する感情があるのは当然のことだからです(もちろん男性もです)。
スケベなおじさんからすると、美人なら許せる
ところで、小野氏のポートレートを見るとなかなか美人であり、可愛いらしい人です。
その場にいれば、意見が違っても黙って聞いていたと思います。
美人は眺めているだけで眼福です。
これが、ブサイクかつ被害妄想に陥っているおばちゃんであれば、私なら初めからこのトークイベントに参加していません。
自らの心境を素直に発言したおじさんは、スケベ心のない真面目な人だと感心されてもいいのではないでしょうか。
「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話
理解できないものをそっとしておく勇気
小野 美由紀文筆家
初老の男性にシャウト!!!
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」
目の前の初老の男性がそう叫んだのは、佐々木俊尚さんとの八重洲ブックセンターでのトークイベント終了2分前、話題が「多様性」に及んだ時のことだった。
一瞬ポカン、その後ふつふつと怒りが湧いてきて「あーっだめダメ、怒っちゃ、ダメ!登壇者とお客さんなんてパワーバランス悪すぎだから!絶対に怒っちゃ!だめ!」と煩悶するも私の堪忍袋の緒はこういうケースにおいてはヨーヨー釣りのこよりぐらいには切れやすく、2秒後にはあっけなく瓦解、「私は!今の発言を聞いて非常にモヤモヤしています!」とシャウト、なぜならその会場には私のLGBTの友人がいたからで、そうでなくたって社会の7%、80人の会場なので80×0.07で5、6人はその会場にいたはずで、この場をそのまま終わらすわけにはいかず、会場はその日一番の盛り上がりを見せたが、おじさん本人はポカンとしていて全くノーエフェクト。その場で当意即妙に切り返せなかった自分を嫌悪しその後、2日ほど寝込む。
きっとあのおじさんは非常に素直な人なのだろう。
自分が気持ち悪い、とか嫌だ、と思うものに対して素直に「嫌だ」と言ってしまうことを、これまで誰にも咎められずに来たに違いない。
そう考えたら私がいくらモヤモヤしようと、彼と私との間に生まれた断絶はどうにも越えられないような気がして悶絶。
佐々木さんは「上の世代なんてそんなもんだよ」と苦笑いしていたが、「そんなもん」でいいのかよ!……と、後日、知人の男性にその話を怒りながらしたら、
「うんうん、そうだね。例えばだけど、好みではない女性から好意を示された時に『気持ち悪い』なんて言って断るような男は端的に言って“いい男”ではないですね。それと同じで、性的対象でない相手のことを聞かれてもいないのにわざわざ『気持ち悪い』と表現してしまう男は端的に言って“いい男”ではないね」
と言われ半分納得、しかし半分のモヤモヤは残った。
差別とか偏見って、どうして無くならないのだろう。
言論を封じることは可能だが、心の中で社会の特定の人々に対して気持ち悪いとか嫌いだとか心の中で思うことを止めることはできない。
だって偏見とは「生育過程で当人も気づかぬうちになぜか持たされてしまった思想」のことで、彼らがなぜその人々に対して違和感を感じ、嫌悪するのかは、彼ら自身にすら分からないからだ。
私にだって多々ある。
例えば「ゲイが気持ち悪い」と言うおじさんに対して「これだからおっさんは」とつい、思ってしまうくらいには(つまり、私も彼とある部分では同質である……トホホ)。
現代の日本において、多様性をめぐる状況は多分過渡期、それはもう枝葉のように細分化したいろいろな意見が出てくるだろう。
その時に、私たちは異質な他者を許せるのか。