『恋は雨上がりのように』は残念な作品でした。
これで終わっていいの?
とモヤモヤしてしまいました(もちろん、アニメも)。
作者はたぶん、あの年頃のおっさんのスケベさを知らないのでしょう。
男は現実から逃避する生き物なので、一生少年のままです。
少年であることは、性欲が服を着て歩いているようなものです。
店長があまりに良い人すぎます。
あまりに非現実的な良い人は共感が難しい。
恋愛漫画の古典『めぞん一刻』でも、五代くんは管理人さん(響子さん)を大好きなのに、(処女ではないとの理由で)平気で他の女の子と性交渉を持とうとしていました。
ホテルに入ろうとするのを響子さんに見咎められて、恥をかきますが。
あれが普通の男の姿でしょう。
『恋は雨上がりのように』では、
詩人ハインリヒ・ハイネの名言 http://www.jlogos.com/d006/5450378.html
「恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ」
が語る、恋の狂気が最後まで出てこなかった。
モヤモヤするのは、店長とあきら双方が「別れたくない。愛し合いたい」その恋愛=狂気を描いていないためでしょう。
相思相愛で大好きな相手とあっさり別れることが可能な恋ならば、文学にも漫画にもならない。
恋する人と別れなくてはならない苦しみが描かれてこその恋愛作品。
店長は45歳のおっさんでも、少年のように橘あきらに恋をしていた。
橘あきらは17歳として店長に恋していた。
その2人が別れなくてはならない理由は、絶対に肉体的な関係をもってはいけないことにあります。
犯罪であるが故に。
しかし、法律が恋愛を拘束できるわけがない。恋は狂気そのものだからです。
未成年に手を出しても良いと主張するわけではありません。
けれども、女の子は14,5歳ですでに大人です。
いつまでも子供っぽい男からすれば、精神的にも肉体的にも、すでに大人と表現していい。
動物としての人間の姿はそれが現実です。
成就しない恋であることを両者が理解しながらも、それでも恋するべきだったのです。
店長が単なる「雨傘」なのは2人が出会った時からはっきりしています。
それでもなお、恋をする苦しみが描かれるべきだった。
あくまで、個人的な感想です。
粘着質な気質としてはそんな恋が理想。
出会った瞬間に「この人を恋し、愛し合い、そして別れるのだ」との黒くまばゆい光が2人の未来を照らし出してほしかった。
そして橘あきらは、狂気の嵐が過ぎた後、陸上競技に復帰するのです。
あきらの母親が2人の関係に気づき、店長に直接会って「別れてください」と咎めていればよかったのかもしれません。
それでしか、狂気(恋)を阻止できないと思うのですが。
映画は観ていないけれど、小松菜奈はいい
映画版『恋雨』は、小松菜奈の演技がいい。
レンタルで観るつもりです。