5-1だった。
何故、日本人はこの猛暑の中で高校生に野球をさせるのだろう。
そして、感動に涙するのだろう。
中島みゆきの歌みたいになってきた。
「空と君とのあいだに」ではない。
けれども、高校野球のために、十代の選手は、無理をして、身体を壊した人が大勢いる。
プロ野球に入っても、すでに壊れていて、使い物にならずに終わった選手も大勢だ。
それでも高校野球は終わらない。
それは日本人にとって、そして選手達にとって、意味があることだから。
『幸福の王子』オスカー・ワイルド著 曽野綾子訳。をよく読む。
価格:1,080円 |
宝石や金箔で華美に作られた王子の像が、一匹のツバメと共に、貧乏人に施しをする話だ。
最期、王子は、すべての宝石や金箔を施して、みすぼらしい銅像になってしまう。
そしてツバメも熱帯に渡ることを止めて、足元で凍死する。
王子の鉛の心臓とツバメの亡骸はゴミ箱へ捨てられるが、天使が拾い上げ神のもとに届ける。
2人は永遠に神のもとで幸福だ。
しかし、ここで疑問がひとつ。
私がクリスチャンではないからなのか、何となく腑に落ちない。
2人は天国で幸せなのか?
最高に幸せなのは、2人が貧者に自らの命を削って施していた時ではないのか。
それでは、天国で何をしているのか?
『極楽』菊池寛著の宗兵衛とおかんのようになるのでは。
現世で善人だった夫婦が、極楽で何もすることがなく退屈し、
地獄の話をするときだけ、目がいきいきとする。
『幸福の王子』。物語としての宗教的な美は理解できる。
時に、私のような俗人ですら、出来ることなら2人のように生きたいと願う。
だってカッコ良すぎるもん。
しかしあくまでも物語である。
現実にこんな生き方をしたら、家族や周囲の人々の不幸は耐え難いものとなろう。
自分ひとりが苦しむならば、いや苦しみではない。
喜びを持って神の如き振る舞いを出来るならば、それは構わないだろう。
そうできるだろうか。
日本史上の理想家のひとりに、大塩平八郎がいる。
困窮する貧者のために立ち上がった。
しかし、彼は後世の共産主義者のように暴力革命を起こしたのではない。
司馬遼太郎が『殉死』で描いている。優秀な国家公務員であった。
そして、陽明学の徒であった。自分が正しいと思うことは実行にうつさなくてはならない。目の前にいる貧しい者は、何としてでも救済しなくてはならない。
知行合一の思想。
その結果の不幸は、彼自身のみならず、彼の側にいただけの人々も被った。
結論。
やはり最初の問いに戻ってくる。
天国で、2人は幸せなのか。