共産主義者の歴史6「マルクスの弁証法とは?」

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弁証法とは「二つの矛盾する命題が、対立を経ることで、新たな一つの命題になる」という思考法です。

この思考法は、マルクスの専売特許ではなく、古代ギリシアの思想家も自然に使用していた方法です。

マルクスが有名になりすぎたために、弁証法と言えばマルクスのようになりました。

マルクスの弁証法は、唯物弁証法と呼ばれています。

 

アウフヘーベン(止揚)を使うと、何となく格好がいい

学生時代に友人と「君の意見と僕の意見を、アウフヘーベンして」などと話したことを思い出します。

哲学についてほとんど勉強していなくても、何となく用語だけを使用することで、格好がつくのです。

 

弁証法について色々読んでみましたが、ニコニコ大百科のカール・マルクスが一番わかりやすように感じました。

少し長くなりますが、以下引用します。

弁証法自体はマルクス独自のものではなく古代ギリシャから続く論理的思考法であるが、特に19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルのものが有名で、一般的に弁証法といえばヘーゲルとマルクスの弁証法のものを言う。ヘーゲルは自ら弁証法という言葉を提起したを訳ではないが、彼の弟子たちがヘーゲルの著作に見られる手法を指して弁証法と呼んだ。マルクスはこれに大きく影響を受けており彼の理論でも多用されるものなのでここで一緒に説明する。

ヘーゲルの弁証法とは、「ある一つの命題(テーゼ、正命題)が、それと矛盾する命題(アンチテーゼ、反命題)と出会った場合、両者はアウフヘーベン(止揚、揚棄)して統合した新しい命題(ジンテーゼ、合命題)になる」という理論のことだ。

命題とは、「正しいか正しくないかはっきりしている文章」のこと。テーゼとは「残酷な天使のテーゼ」のテーゼである。アンチテーゼまでは聞いたことがあるだろう。アウフヘーベンとは「捨てて持ち上げる、高める」という意味。

ヘーゲルの著書「精神現象学」によれば、全ての存在は本質の内に矛盾を抱えており、それが外化してアンチテーゼとなり本質と対立すると述べた。テーゼとアンチテーゼはどちらが正しいという訳ではなく対等なものである。テーゼはアンチテーゼに否定され、アンチテーゼはテーゼによって否定の否定がなされる。アンチテーゼはテーゼを完全に否定しないし、テーゼはアンチテーゼを完全に否定するしない。両者はそれぞれを保存しつつ統合して(相互媒介)、より昇華された命題を生み出すのである。

図にするとこんな感じ。

テーゼ←→アンチテーゼ   
    ↓
  ジンテーゼ

まずテーゼとアンチテーゼがお互いを否定しあう。そうするとアウフヘーベンが起きて二つが合体! ジンテーゼの出来上がり。そしてジンテーゼは再び新しいテーゼとなり新しいアンチテーゼに否定し合う。「正→反→合→正→反→・・・」これを繰り返すことによってより矛盾の少ない議論に達するとヘーゲルは考えた。

分かりやすい例

A太郎「昼飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・俺はカレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ
A太郎「そっか、じゃあカツカレーを食べにいこうぜ」←ジンテーゼ

最初のテーゼがアンチテーゼに否定されつつ保存され、両者が統合された最終結果がでている。

ちょっと分かりにくい例

「王制や教会による近世の封建制政治システム」←テーゼ
「生産技術向上や市場拡大による自由経済への欲求の高まり。古い体制が邪魔になる」←アンチテーゼ
「封建制を打倒する宗教革命や市民革命などの発生」←ジンテーゼ

二つ目の例は経済が政治を発展させるという唯物史観の考えである。マルクスはヘーゲルに強い影響を受け高く評価していたが後に「ヘーゲルは優れた思想家であったが頭でっかちで彼の理論は現実的でない。やっぱり現実に応用しないとダメだ」と言って、観念論的だったヘーゲルの理論を唯物論に応用した。これがマルクス独自の唯物弁証法である。

 

この中で、マルクスの唯物弁証法からすると、一つ目の分かりやすい例は間違っています。

A太郎「昼飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・俺はカレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ
A太郎「そっか、じゃあカツカレーを食べにいこうぜ」←ジンテーゼ

最後のA太郎の発言が、アウフヘーベン(止揚)していません。

単に折衷案を提案したに過ぎないのです。二人共、カツカレーが食べたいとはひと言も言っていないからです。

マルクス的唯物弁証法はこうだ

二つ目のちょっと分かりにくい例

「王制や教会による近世の封建制政治システム」←テーゼ
「生産技術向上や市場拡大による自由経済への欲求の高まり。古い体制が邪魔になる」←アンチテーゼ
「封建制を打倒する宗教革命や市民革命などの発生」←ジンテーゼ

がマルクスの唯物弁証法であるならば、正解はこうです。

A太郎「昼飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・俺はカレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ

A太郎「そっか、お前とは意見が合わないな」

B助「俺は、お前を殺して、あり金を奪い、カレーを食べに行くことにする」←ジンテーゼ

これがマルクスの弁証法です。

 

どう考えてもそうでしょう。

二つ目の分かりにくい例では、テーゼを破壊して新しいテーゼを提案し、自分達に都合の良いアンチテーゼを、新たなるテーゼとして置き換えているだけです。

革命とは、階級闘争とはそういうことです。

マルクス擁護派は、否定する

池上彰は、そうではないと書いていますが、その部分を否定したらマルクスの思想が根本から崩れます。

狂信的な人がとらわれやすい、危険な思想です。あまり、ありがたくない考え方です。

 

カール・ハインリヒ・マルクスについて調べてみると、本人は周囲と喧嘩ばかりしていたようです。結局、対立ばかり繰り返して、晩年の友人はエンゲルスだけだったとか。

ある意味、こんな攻撃的な思想法をする人間の当然の末路でしょう。

 

池上彰とか佐藤優の解説本を、一応読んでみたのですが、しっくりきません。そんなにありがたい思想が、何故に、何千万人もの人々を殺戮したのか。そのことに答えていません。この2人のマルクスに対する賛美は、まるで宗教の教祖を褒め称える信者です。

『共産党宣言』を読んだ感じでは「貧乏人は団結し暴力で金持ちを倒せ(殺せ)。そして貧乏人の理想郷を作れ」と言っているようにしか思えませんでした。

読み方が浅いだけなのかもしれません。しかし、専門家でない人ならば、少なくとも過半数は、そのようにとらえるでしょう。

 

マルクスを擁護する人は、それは時代のせいだと書いていますが、当時でも団結して、暴力で政治体制を倒すことは違法でした。

ましてや、金持ち(資本家)だからとの理由で、暴力を振るったり殺したりすることは、いつの時代においても犯罪です。