人間は、いじめを行うのが普通の状態です。
動物界ではいじめどころか嬲りものにされ殺されることもあるので、人間界がまだマシなのかもしれません。
そして、子供社会より大人社会の方が、はるかに残酷ないじめが行われていることは、周知のことです。
大人の社会であることは、子供社会にも存在します。
これは当たり前の話なのですが、あまりに明解すぎる理屈は学校では通用しないようです。
学校でいじめに慣れておかないと、社会に出たときに通用しないのですが。
いじめには2種類あります。
他人からいじめられるか、他人をいじめるかです。
誰もが両方を経験しておくべきです。
学校生活は、いじめ体験を得るためにあると言ってもいい。
演習をしておかなければ、実戦に出会った時対応できません。
脳科学者の中野信子氏は、『ヒトは「いじめ」をやめられない』の中で、人間の脳は集団に従わない者に対して、いじめをするようにプログラムされていると主張しています。
脳にプログラムされていることを取り除くことはできません。
しかも、そのいじめは集団にとって「正義」とされ、脳にとっていじめることが快感になるそうです。
異端者を許容することは苦痛だから、いじめる
冷静に考えれば、当然のことです。
同じ行動をしない人間を仲間にすることは苦痛を伴います。
アニメオタクの話を、全く興味のない人が聞くのは辛いことです。
ジャージを履いて暮らしている人の生活に、ファッションに敏感な人が辛抱強く付き合えあるでしょうか。
そんな苦しいことを続けることは、可能ではないのです。
人は好きなことしか出来ません。
世間には、命を失うかもしれない現場でも喜々として働いている人がいます。
例えば警察官、消防士、軍人などです。
時には仕事中に命を落としかねない。それを承知で職に就いている。
何故なら、その仕事が楽しいこと、自分にとっては心地よいことだからできることなのです。
ぎりぎりのラインまで自らを追い込むことが、快感になるのでしょう。
しかも、正義のために働けることが更に悦びになるのです。
日本は農村社会だから、陰湿にいじめる
日本は農村社会なので、勝手な振る舞いやスタンドプレーをする人間はのけ者にされます。
農業にとって必要なのは協調性です。自分一人では収穫を得ることが難しいからです。
現在日本には、農業人口が3.7%しかいませんが、それでもDNAに刻まれた行動様式は変わらないのです。
農村社会では“村八分”といわれる言葉があります。
寛容さを欠く言葉のように受けとめられています。
けれども、村八分は優しさを表す言葉でもあります。
80%はのけ者にされるが、20%は助けの手をさしのべるのですから。
具体的には、火事と葬式です。
火事の消火活動と葬式の世話だけは面倒を見る。
前者は、本人以外にも影響が及ぶから(延焼するから)。後者は、さすがに死に際してはのけ者にできないからです(死体が腐っても迷惑ですし)。
本題から少し外れますが、村八分について調べているとあるHPが見つかりました。
南馬宿村役場のHPが笑えます。しばらく騙されます。ただし、元ネタになった事実は本当にあったことかもしれません。出来栄えが素晴らしいので、一見の価値ありです。
人間は集団に従わない者をいじめるのが習い性である。それをいじめとして無理やり抑えても(無いことにしても)解決にはならない。
そんな風に開き直るまたは現実を見ることから、いじめ対策を始めることが必要なのかも。
映画『少女』陰湿ないじめは見ている方が辛い
ヒトは「いじめ」をやめられない (小学館新書)では、男と女のいじめの違いが書かれています。
男は過激になる。つまり、暴力的ないじめになりやすい。
女は巧妙になる。腕力が無いので、陰湿になる。
女の集団におけるいじめは、男には耐えられないものがあります。
多分、男があんな目に遭えば、自殺するか発狂するのではないか。
映画『少女』は、本田翼と山本美月ダブル主演なのですが、中学時代に剣道日本一になった敦子(山本美月)へのいじめが恐ろしく陰湿でした。
高校の県大会、試合中脚を負傷して倒れた敦子に、
「推薦で入ったのに、ありえない」
「調子こいてるからだよ」
などと面越しにこっそり罵る部員達がありえません。
その後もいじめは続き、精神的に追い詰められた敦子は過呼吸になってしまいます。
いじめられ方が半端ないので、観ているこちらがパニック障害になりそうでした。
本田翼は、本人が持っている闇をそのまま演じたかのよう。
山本美月は、アイドル的な女優さんかと思っていたのですが、深みを感じられる演技でした。
可愛らしさや美しさは、その人が持っている徳から現れるものではなく、醜さと残酷さから現れるのかもしれません。