中国人は記録マニアです。
『史記』や『三国志』などを読むと詳細に古代中国のことが記されています。
ただし、殺した人数がやたらと多い。
紀元前260年、秦と趙が戦いました。秦は勝利するが捕虜が40万人にもなります。
秦の白起将軍は、連行する余裕がなかったため、全員生き埋めにした。
などと、おかしな話です。どちらがめんどうなのか。
横山光輝『史記』より 白起将軍
普通、捕虜になれば自軍の兵隊として最前線につかせるのが常識です。しかも連行する余裕もないのに、40万人も生き埋めにする余裕があるとはどういうことなのか。
中国人は、こんな風に何事もオーバーに描くのが癖なのでしょう。
そしてこの癖は現代になっても変わっていません。
「南京大虐殺」などはその典型なのです。
国家追悼は世界平和のため
人民網日本語版配信日時:2017年12月13日(水) 21時20分
80年前の12月13日に南京に荒々しく侵入した中国侵略旧日本軍は、その後この世のものとは思われぬほど残虐な南京大虐殺を行い、中国同胞30万人が悲惨にも殺戮された。今日、4回目の南京大虐殺犠牲者国家追悼日にあたり、中国は再び荘重な式典により、亡くなった同胞に哀悼の意を捧げる。中国人民は南京大虐殺の歴史を永遠に銘記し、平和と正義を愛する世界の人々と共に平和を守る。(人民日報「鐘声」国際論評)
そんなことができるのに、何故勝てなかったのだろう
冷静に当時の情勢を見ると、
「そんな短時間に、事前に何の計画も無く、あの貧弱な装備で何十万の人間を殺害できる軍隊が、何故勝てなかったのか」との疑問しか湧きません。
1937年の南京攻略戦から4年後の1941年、日本陸軍はフィリピン侵攻作戦で76000名の米比軍を捕虜にしました。
その際、バターン半島を徒歩で収容所まで移動させて、「バターン死の行進」などと戦後裁かれたのです。
たった76000名です。「南京大虐殺」を可能とする軍隊ならば、生き埋めにしたり(ガソリンも無くとも)燃やしてしまうことも簡単にできたでしょう。ところが、収容所に入った捕虜は54000名もいました。
(フィリピン兵は道中に逃亡したようです。現地で逃げれば判別がつきません。)
洗脳された人々の話
人は霞(かすみ)を食べて生きていけません。
腹が空いている時食物をくれる人、寂しい時優しくしてくれる人にはほとんど無条件で感謝してしまう。
新興宗教がおかしな教義を掲げながらも大勢の信者を抱えているのは、ある意味これがあるからです。
困っている時、悩んでいる時、病気に苦しんでいる時に優しくされると無条件で信じてしまいます。そして、どんな教義であっても信じることは心に平安をもたらします。その結果として、病気が自然に治癒することも多いのです。
プラセボ効果といいます。
医学的には全く効果のない薬であっても、信頼している医者から「これは特効薬ですよ。必ず効きます」と言われれば、明らかに効果がある。
母親が子どもに「もう痛くないよ」とさすってくれれば、本当に痛くなくなるのと同じです。
私事ですが、祖父母が満洲で終戦を迎えました。
祖母と子供たち(私の父とその兄弟)は南下して逃げましたが、祖父はソビエト軍に捕まりシベリアの収容所送りとなりました。
2年間シベリアの収容所に抑留されました。
祖父は軍属であり、自動車のエンジニアであり、収容された先も技術者がほとんどだったらしい。
シベリアに抑留された日本人は、劣悪な環境で強制労働させられたため、60万人の内、約1割の6万人が死亡しました。
ところが、生前の祖父にその頃の話を聞くと収容所では快適に暮らしていたらしいのです。一番困ったことが水虫の痒みだったので、食事や住まいには苦労しなかったのでしょう。
ある日、収容所で脱走騒ぎがあったそうです。すぐに脱走者は捕まり、収容所に戻された。次の日の朝、収容者が集められ、ソビエト兵が角材を使って何かを組み立て始めました。
皆は、これは絞首刑の台であり、公開処刑が行われるのだと恐怖に震えていた。
するとその台に、収容所の所長が上がり話を始めた。
内容は「脱走はやめて下さい。収容所の外は危険ですよ」といったものだったそうです。話はそれで終わり、脱走者も罰されることはなかったのです。
この話を聴き終わった後、祖母と私の2人きりになりました。
祖母はこっそりと「おじいちゃんはすっかり騙されちゃったのよ。話をまともに受け取ったらダメよ」と言った。
祖父は死ぬまで、ソビエト・ロシアの批判(共産中国の批判)をすることなく、毎朝朝日新聞を読みながら、共産主義的な思想を持っていました。
冷静に話を聞くと明らかに洗脳されたのです。
しかも技術者は、あらゆる面で優遇しておいて思想的に改造されたようです。
中国でも共産党は、撫順戦犯管理所において手厚い待遇を行い洗脳しています。
「中国の旅」連載とほぼ同時期、月刊誌「現代の眼」に「天皇の軍隊」と題した取材報告が連載された。著者名は熊沢京次郎とあるが、筆者は本多勝一と長沼節夫(時事通信記者)である。連載は同名の単行本(現代評論社)となり、後に二人の実名をもって朝日文庫に加えられた。
内容はといえば、中国山東省に駐留した第五十九師団による数々の残虐事件、残虐行為を「日本兵の証言」をもって糾弾したものである。軍紀は死語同然、やりたい放題の日本兵の姿があった。討伐作戦とは「女あさりにカッパライ」、女と見れば強姦は日常茶飯事、あげくに異様な手段での殺害も珍しくない。男の方は拷問、菜切り庖丁で胸から腹まで断ち割るといった凄まじさである。
『中国の旅』に加えて『天皇の軍隊』を読めば、国民はかつての日本軍に嫌悪感をつのらせ、同師団にとどまらず日本軍全体が同様であったと考えるだろう。ところが「日本兵の証言」というのが曲者で、登場人物を調べたところ予想どおり、残虐行為の証言者はことごとく中国戦犯だったのである。
洗脳され、その後帰国した元兵士達が南京大虐殺やその他の虐殺について証言した。
このことは事実なのです。