映画としては、良作です。
しかし、原作を何度も読み込んだ遠藤周作ファンとして、この映画の結末は、原作と真逆の意味を持つのではと感じました。
形だけ棄教してもイエス・キリストを信じ続けた
ロドリゴ司祭は、形だけ棄教したが、最後までイエス・キリストを信じていたとのラストシーンでした。
火葬にされる際(キリスト教徒は、死後復活する予定なので火葬ではなく土葬が基本。この当時は絶対)、モキチから預かった手作りの十字架を隠し持っていたからです。妻だけに、遺体に持たせるよう遺言しておいたのでしょう。これは原作には無い場面です。
キチジローもまた同じように、キリスト教徒であるお守りのようなものを所持していたために、捕らえられます。
これは、原作とはまったく逆の結論では。
遠藤周作は、ロドリゴを本当に棄教させたのです。
日本風の、人間に寄り添って共に苦しむ地蔵菩薩のような神としてイエスをとらえた。
このイエスは、キリスト教のイエスではありません。
ロドリゴは、日本人が地蔵菩薩の如き神を信じるように、その声を聞いたのです。
井上筑後守の詰問シーンを入れて欲しかった
原作にある、ロドリゴが転んだ後、井上筑後守が厳しく詰問する場面を入れていないために、結論が真逆になったのです。
「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督(キリスト)が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」
「奉行さまが、どのようにお考えになられてもかまいませぬ」
司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」筑後守はつめたい声で言った。「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それとは違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」
『沈黙』遠藤周作著より
この後、ロドリゴは「基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうと」するのですが、理解されまいとして黙っています。
うーん。井上筑後守の指摘は全く正しい。
簡単に言えば、
「イエス・キリストが私(踏絵)を踏めと言ったそうだな」
「それは、お前達の信仰とは違う。誤魔化しだ」
「そうでなければ、お前も日本風の信仰にのまれたのだ」
との意味です。
『愛のために死ねますか』で結城了悟神父と曽野綾子の対談
結城了悟神父は、旧名ディエゴ・パチェコ・ロペス・デ・モルラ、日本に帰化したイエズス会の司祭です。
カトリックである作家、曽野綾子との対談ではっきりと発言しています。
司祭が踏絵を踏んでも良いとする、遠藤周作は間違っていると。
当然です。もし裏切った者も救われるならば、何のために大勢の聖者が殉教死したのですか。
そして何よりも、ユダヤ教から新しい教義を説いたイエス自身が、新たな教えを形だけですら曲げないことで拷問され、十字架上で処刑されています。
形だけ裏切ってもいい、それでも救われるとするならば、根本から教義が崩れます。
イエス・キリストが、「この教えのために今後大勢の人々が拷問され苦しむので、布教をやめます」と父なる神に言っても良いことになるのです。
日本人にとっての神様とは
日本人が心に抱く神様は、信じることで苦痛を強いる者ではありません。
極端な人は、犯罪者でも死ねば仏になるとまで考えています。
日本では、教えのために苦痛を強いるのは「鬼」と呼ばれます。
遠藤周作が、
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
と呻いたのは、彼が最後まで日本人だったからでしょう。
長崎にある「沈黙の碑」