パロディも文化です
マンガやアニメのパロディが流行っていたのは、昔だけと思っていたが、
いつになっても、やはり同じらしい。
歴史を振り返ってみれば、物語や絵画はパロデイの繰り返しで、より進化してきた。
今、古典として残っているのは、優れたパロディ作品である。
原作より優れたパロディは、たとえ原作が消え去っても残るのだ。
そしてそれが新しい原作になる。
韓国や中国がパクリ大国であると非難されている。
著作権法からすると明らかに違法な物もあるが、
パクって元の作品より優れたものを創造すれば、それは新たな創作である。
非難されるのは、原作を劣化させるからである。
電化製品であっても、マンガやアニメであっても同じだ。
パクっても、明らかにオリジナリティが見える作品を作ればいいのに。
それが出来ないから劣化パクリなのかも。
映画『アマデウス』では、あのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトですら、当時有名だった他の作曲家をパクって曲を制作していたことが描かれている。
そして、よりオリジナリティあふれる作品を創造した。
映画は、あの結末はともかくも、今に残る史実を元に制作されている。
当時はサリエリのほうが、有名作曲家だった。
ところが、音楽の歴史はモーツァルトを現代に残したのだ。
少し話がそれた。
『富士山さんは思春期』が終了して残念だ。
高校生ぐらいまで続ければよかったのに。
カンバが浮気して、一度別れるとかすると面白くなったのに。
オジロマコトの以前の作品を購入し読んで、呆れた。
青年誌のエロいマンガなのだが、さっぱり意味がわからない。
『恋人8号』しかり『カテキン』しかりである。
作者が女性であることにも驚かされるが、
内容の情緒不安定さに、頭がクラクラさせられる。
『カテキン』の馬鹿さ加減はとりわけだ。
中学生の少年が主人公、彼が押し入れで自慰行為をこっそりしていると、母親が不審に思い開けてしまう。その時絶頂に達し発射された彼のナニが、母親の目に入り悲惨な事になる。
こんな、書いているだけで、馬鹿馬鹿しく恥ずかしいストーリーなのだ。
『富士山さんは思春期』でも絵が上手だが、この人は昔から上手なので、
「もったいない。何故まともな話を描かなかったのだろう」とがっかりした。
多分『富士山さんは思春期』でやっと作者らしい作品を描けたのだろう。
『富士山さんは思春期』で検索していると、
R18のパロディ作品がヒットした。
よく、こんなに画風を真似て描けるものだと感心する。
ただし、原作者が描いたほうがもっとエロ面白く描けるだろう。
興味ある方は検索してみては。僕のカノジョ。